鎌倉 仏像についての記事紹介。記事を書いた人のセンスがいいです。
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京都の仏像:/52 大将軍神像群 /京都
毎日新聞 神社は平安遷都の794年、御所の北西角に建てられた。神像は昭和期以降、次々と見つかった。それぞれが倉庫などに無造作に放置されていたという。正面の武装像は北極星、手前に並ぶ7体の衣冠束帯像は北斗七星を表す。平安中期から鎌倉期の作で重文。 |
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福岡秀樹メイツ出版この著者の新着メールを登録する発行年月:2004年12月登録情報サイズ:単行本ページ数:144pISBN:9784895778275【目次】(「BOOK」データベースより)北鎌倉エリア/源氏山エリア/鎌倉駅東口エリア/金沢街道エリア/材木座・名越街道エリア/長谷エリア【著者情報】(「BOOK」データベースより)福岡秀樹(フクオカヒデキ)昭和39年東京で生まれる。東京理科大学理学部物理学科卒。フリーランスでソフトウェア開発の仕事をするかたわら、日本文化の源流探索をライフワークし、ライターとしても活躍する。仏像・仏画や仏教、神道とその源流にある古墳や神話、日本の伝統芸能や日本美術
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| Q | 謗法厳禁の厳しい宗祖の教えを守る、日蓮正宗だそうですが、身延離山理由、民部日向が鎌倉方面の南風をもって地頭の波木井を誘惑、数多くの謗法をあえてして、日興上人の厳戒も聞き入れない、神社参拝、念仏に供養、釈迦の仏像造立などがあり、身延を離れるにいたった。しかし当時地頭が貞永式目に逆らうことは困難で、南条時光も例外ではない。ではなぜ南条氏の謗法は許され、波木井氏は許されないのか。地頭として謗法が双方ありながら、一方は称えられるのか。 |
| A | 「四箇の謗法」を犯して白蓮阿日興の「身延離山」の原因をつくったとされる南部実長は甲斐源氏の諸流の名門の豪族でした。所謂、二所の権現・三島明神は鎌倉幕府の創始者である源頼朝所縁(ゆかり)の神社であり、南部氏が源氏であることを考えれば因縁浅からぬところです。加えて、南部氏が源氏諸流の地方豪族の御家人という立場を考えれば、二所の権現・三島明神への参詣寄進は当時の武家社会の常識に照らせば当たり前の事だと言えます。これは「信仰」と言う次元での御話ではなく、言わば義務化した鎌倉御家人の慣習です。日蓮在世の頃の鎌倉の有力檀那方も、鎌倉幕府のシンボルとも言うべき鶴岡八幡宮への参詣は当然の義務として行っていました。将軍家や幕府の重要な儀式は鶴岡八幡宮で行われる習わしになっていたからです。鎌倉幕府が滅んで年久しく、足利氏の室町幕府も名ばかりになっていた戦国時代の武将、上杉謙信公も関東管領の就任式を鎌倉の鶴岡八幡宮で挙行しています。日蓮門下には鎌倉幕府に仕える有力御家人が数多いましたが、日蓮自身が彼らを「謗法」呼ばわりした事は一度もなく、それどころか、彼らの立場を思いやる言葉が遺文に多く見受けられます。『貞永式目』の法度に違反してまでも、法義遵守の強制はしてません。思うに「日蓮聖人」は法義上は厳格なところがありましたが、信徒一人一人の社会的立場を殊の他に尊重されていたのです。日興の「身延離山」の顛末は『原殿御返事』に詳しいのですが、「日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は、二代、三代の末は知らず、未だ上にも下にも誰か御忘れ候ことにて存じ候え」とあるように、南部一門を日蓮門下として貴方がたの「御師」であるのは日興であるのに、その自分を差し置いて民部阿日向の指南を受けたのはケシカランという事なのです。身延管領にしても実際には日興が別当職にあったという資料は現存していません。日興は「教えのままに」が信条でしたから、日蓮の『立正安国論』の文章を教条として、その弟子分である自分が檀那衆の行動を指導監督する宗教的権限があると考えていたようですが、それは他の五老僧や富木日常・大田常明・四条金吾・池上兄弟等の有力檀那がかならずしも、日興の意向に沿っていない事実を視れば当時としては無理だったことは明らかです。「時の法主への信伏随従」などは、長い富士門流の歴史の中でも、つい最近の御話です。南条時光は南部(波木井氏)と同じ鎌倉御家人とは言っても、北条執権家の「得宗被官」すなわち北条本家直属の家臣であり、その職務は執権の代務者としての性格があり、南部氏とは立場を大きく異にします。要するに、得宗被官の二所の権現・三島明神・鶴岡八幡宮への参詣等は、将軍・執権の「「公事」(公務)と看做されていたのです。おそらく法義に厳格な日興も、南条家の得宗被官としての特殊な立場をある程度は考慮したのかも知れません。日興は他の五老僧始め、鎌倉の有力檀那衆とも、その厳格さ故に次第に疎遠になっていったようなのです。宗教の対立には、必ず利害の対立や感情的な行き違いがあり、それが弟子達の代に教義的な意味付けがなされることが多いのです。日蓮聖人は「謗施は受けず」と言われましたが、長い歴史の間には「不受布施派」を除いては有名無実と化しています。日蓮正宗信徒は「法制上(法律等の事)と法義上(佛法上)の事とは別だ」などと言っていますが、大石寺の歴史を詳らかに見てゆくと、なんとも権威権力には媚諂っている事実が散見されます。徳川時代には六代将軍徳川家宣公と正室の天英院殿の寄進を受けていますが、徳川将軍家の菩提寺は浄土宗の増上寺と天台宗の寛永寺であり、当然のことながら天英院殿もそれらの寺院には布施・寄進をしていますから、日興の法義に照らせば「謗法」と言えるでしょう。江戸常泉寺では、天英院殿より下賜された鬼子母神や水天を祠堂を建てて祀っていた記録がありますし、十三代将軍徳川家定公の正室、天璋院殿(篤姫)も大石寺に寄進していますが、将軍家菩提寺にも、他の宗派にも布施・寄進はしています。これらの寺檀の行為は日興の法義に照らせば明らかに「謗法」でしょうね。意外な事に日蓮正宗が殊更に「謗法厳戒」を言いだしたのは創価学会の出現からのようです。大石寺の古い檀家(根檀家)などは、伊勢神宮にも参詣しますし、神札だって祀っています。しかし、僧侶は古い檀家に対しては「謗法ですよ」なんて言いません。そういう旧家には板曼荼羅や宗祖御影が安置され、大石寺歴代法主の手書き本尊が何幅もありますよ。新参信徒や元学会員からの「渡り信徒」などは、「御法主上人猊下に信伏随従」と言うそうですが、古い檀家の人達は「御前さん」と呼んでますし、決してひれ伏している訳ではないようですね。やはり日蓮正宗も「人を見て法を説け」なんでしょうね。 |
心の洗濯~奈良旅~:water colour:So-netブログ
鎌倉へ行った10日後の6月末、4度目の奈良旅へ行ってきました。 またもや過去に遡る記事なんで、全く新鮮さに欠けてしまうのですが…(^^;. さて今回の目的は。。。。。 ・信貴山朝護孫子寺へ行く ・大仏様からパワーをいただく ・鹿に癒される …
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週末 ciclista : 逗子〜神奈川ポタ(!?) そして初の境川CR
開店は11時半なのですが、我々は11時に到着&並んでいたので大正解♪ 私はお刺身2点盛定食(¥1000)を頂きましたが、 ネタがとっても新鮮&ボリューム満点でまいう〜!!! 大人気な理由が良くわかりました♪♪ その後、鎌倉名物「大仏」に向かい、記念撮影を …
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