平安時代 仏像についての記事紹介。この記事おもしろいですね♪
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京都の仏像:/77 不動明王立像 /京都
毎日新聞 平安時代初期の一木造り。天台宗の寺院で現存する最古の不動明王とされる。大きく見開いた両目、おさげ髪、真っ直ぐ垂らした左腕、めくれた衣のすそから見えるひざ。いずれも初期天台系の不動明王が持つ特徴だ。 像高133・7センチ、重文。比叡山の常住金剛院を前身 … |
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商品副データ政治・宗教 日外アソシエーツ日外アソシエーツ/紀伊國屋書店日外アソこの著者の新着メールを登録する発行年月:2010年09月登録情報サイズ:事・辞典ページ数:361pISBN:9784816922756【内容情報】(「BOOK」データベースより)平安時代の政治・社会・宗教を知るための239のテーマを設け、それぞれのテーマを解説するとともに、より深く学ぶための参考図書5771点のリストを付したものである。【目次】(「BOOK」データベースより)政治(平安時代/長岡京/平安京/桓武天皇/早良親王 ほか)/社会(荘園制/公営田制/田堵/荘園整理令/目代 ほか)/宗教(平
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| Q | 橘三千代は、前夫との子は大臣に、不比等との子は皇后に、そして孫は天皇になっています。その橘三千代が、法隆寺に種々のものを施入しています。これについて何故施入するのか、何故法隆寺なのか、ご存知のこと教えて下さい。「法隆寺には橘三千代の影がちらついている」こう言ったのは梅原猛氏ですが、1)橘夫人念持仏が置かれている。2)西院の西北にある西円堂は橘夫人の御願により行基が建立したといわれる。3)東院にある伝法堂は、橘夫人の住宅が奉納されたものであるといわれる。4)「東院資材帳」には橘夫人の宅から多くの品物が奉納されている。また法隆寺には彼女の娘である光明皇后や、その夫の聖武天皇から様々な品々が寄贈されています。これらのことから、梅原氏は法隆寺には橘夫人を通じて藤原不比等の意志が強く働いていると推測していますが、実際には不比等はもとより、房前以外の藤原氏の息子たちの影は法隆寺には見あたりません。房前は三千代の娘である牟漏女王の夫ですから、三千代にとって婿に当たります。また光明皇后も不比等の娘であると共に三千代の娘でもあります。三千代と光明子の法隆寺とのつながりは深く、資材帳にはたびたび光明子によって「丈六分」の資財施入が行われていることが記され、その中には三千代の一周忌直後に納められたものもあります。この「丈六」というのが何をさすかが問題ですが、仮にこの西円堂本尊のことであるとすれば(法隆寺には像高が丈六である仏像は現存、記録上ともにほかに存在しないので)、この堂・像と三千代、光明子の関係の深さは単なる後世の伝と片付けることはできなくなります。ところが、747年につくられた法隆寺の資財帳(財産目録)には、この西円堂の記載がありません。西円堂およびその本尊についての確かな記録としては、平安時代中期の1048年にお堂が破損し、そのために本尊像は講堂に仮安置されたとあるのが最初(その後鎌倉時代に現在のお堂が建てられて、本尊も戻った)。従って、その創建年代および本尊像の造立年についてはわからないそうです。一見、派手で華やかな経歴を持つ三千代の心の奥深くには他人には伺い知れない大きな闇が、存在していたとは思うのですが・・・。長くなって済みません。度重なる施入は何故なのか、何故法隆寺なのか、橘三千代にとって「法隆寺」の位置付けは何なのかについて、ご存知のこと教えて下さい。お願い致します。 |
| A | 708年「県犬養宿禰三千代」が43代元明天皇から「橘宿禰」姓を賜ってから、1300年を超えたのですね・・・。長くなるので、順不同でポイントだけ記します。ひとつの仮説を考えるうえで、参考になれば幸いです。『日本書紀』安閑天皇2年5月9日条に、数カ国に屯倉=大和政権の直轄地を設定した記事があり、次の8月1日に「詔して国国の犬養部を置く」とあるので、この「犬養」は屯倉の警備にあたったものという説があります。また、地名の分布でも「犬養」と「三宅(屯倉)」に近接関係が確認されているそうです。乙巳の変、つまり中大兄・鎌足らによる蘇我入鹿暗殺事件のさい、『書紀』に記されている実行メンバーは海犬養勝麻呂・佐伯子麻呂・若犬養網田です。宮中の警護にあたるべき人物を味方に引き入れていたことを証明していますが、海犬養・若犬養とも三千代と同族の別系統かもしれません。県犬養 三千代の父は、県犬養東人とあります。「連」はありませんが、県犬養連大伴と同族であったと思われます。県犬養連大伴は、天武天皇から、病気見舞いを受けるほど、信頼されていました。それゆえ、県犬養 三千代は、天皇、特に後の持統天皇から注目されたのではないでしょうか?三千代は、708(和銅1)年元明天皇より橘宿禰の姓を賜わる。729(天平1)年、藤原麻呂が「天王貴平知百年」の瑞字ある亀を献上するが、瑞亀が捕獲された河内国古市郡は橘三千代の本貫。同年、娘の安宿媛の立后を遂げる。とあります。法隆寺の西円堂は、718年(養老2)に、橘三千代の発願によって行基が建立と伝えられていますが、747年につくられた法隆寺の資財帳(財産目録)には、この西円堂の記載がないとのこと。たとえ後に作られたとしても、何故718年という年を創建と仮託したか、を考えてみると、光明子が阿倍内親王を出産した年だからではないでしょうか。或いは、天武の寺院政策による、再度の打ち切りに関係しているかもしれませんが・・・。「小姉君」と欽明天皇の間に生まれた皇子や皇女、つまり厩戸皇子の母・穴穂部間人皇后、弟の穴穂部皇子、崇峻天皇(泊瀬部皇子)の内、穴穂部皇子も崇峻天皇も暗殺されています。残された太子一族の山背大兄皇子一族は、蘇我入鹿や後の孝徳天皇らによって全員自害に追い込まれています。最近、皇極が入鹿を唆して、山背大兄皇子を倒したとの説も出ているようです。故に、断絶させられたのは「聖徳太子の血統」ではなく、「小姉君の血統」だったのではないでしょうか梅原猛氏の「隠された十字架」の中にもあった?法隆寺の舞楽・蘇獏者のことがあります。秦氏の広隆寺では古来、歴代天皇の即位式に着用した黄櫨染(こうろぜん)の御袍(ごほう)が下賜されて、それを秘仏の本尊・聖徳太子立像に着せているという。舒明-皇極-天智-持統天皇ラインが、聖徳太子建立の元々の法隆寺ではなく、単なる再建ではなく新企画の法隆寺建設を推進していたようです。三千代もそのライン上にあるのではないでしょうか。天武は蘇我系ではないかと言われています。天武-高市-長屋王。長屋王の変は、実際は、長屋王よりも元明天皇娘で石川麻呂(蘇我氏)の曾孫にあたる吉備内親王と、その子の抹殺ではなかったかという説もあります。皇太子に立てられた孫の基王が夭折した時は光明子27歳。翌年皇后になったが、まだまだ皇子を生める年です。そして藤原4兄弟の死。平安時代に書かれた『七大寺年表』には和銅年間(708~714)に法隆寺が建てられたとあります。資料の信憑性もありますが、当時は正史には記載しにくいことでも後世では書けるということもあります。三千代が望んだことは、天皇家(娘の光明子の幸せと子孫)の繁栄、実家の県犬養一族と自分の子供達・橘一族の繁栄ではないでしょうか。不比等邸の跡地に、光明子の創建した、日本の総国分尼寺とされたのは「法華滅罪之寺」。以上のことなどを鑑みれば、ひとつの仮説として、県犬養一族が犯してきた闇の部分や、不比等と共に三千代自ら関与した闇の部分への「鎮魂」と「贖罪」、そして「怨霊」を封じ込め、「滅罪」と「繁栄」を願うための施入ではないかと思います。追伸・補足 goverment525 さんへ 推古天皇の孫・・・天寿国繍帳の制作発願者として有名な橘大郎女=位奈部橘王(イナベノタチバナノオオキミ)のことでしょうか? ただ622年に亡くなっておられるので、約百年後の行基に依頼するのはちょっと無理かと・・・。橘夫人は他にもおられます。聖武天皇の夫人、橘三千代の孫・橘佐為の娘「古那可智」を確かに「橘夫人」と呼びます。天平14年(742年)2月に韓櫃などの調度を、また同18年(746年)5月に『薬師経』などをそれぞれ法隆寺に施入していますが、一世代(約30年)遅いと思われますが・・・。 |
河内国 観心寺へ いっしょに遊ぼ!!/ウェブリブログ
「霊宝館」もその一つなんですが、平安時代初期の仏像がたくさんあり、それが「重要文化財」。金堂は国宝、中に居られる「如意輪観音像」は国宝第5号として認定されています。この仏様は秘仏で「4月17日、18日」しか公開していません。 …
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春の鐘の「秋篠寺」
平安時代は、東塔や西塔も備わった大寺院であったようですが、戦火により喪失したようです。 今は、塔の礎石だけが残ったこじんまりとした森の中のお寺です。本堂には、芸能の神様である技芸天像が祀られて、訪れる人の絶えない場所です。 …
平安時代は、東塔や西塔も備わった大寺院であったようですが、戦火により喪失したようです。 今は、塔の礎石だけが残ったこじんまりとした森の中のお寺です。本堂には、芸能の神様である技芸天像が祀られて、訪れる人の絶えない場所です。 …

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